
震災直後に偶然、海外へ渡ったからこそ気が付けた2つの想い

Compathy Magazineライターのyokoです。
これは2011年に日本で起きた東北大震災直後、オーストラリアで過ごすことになった私自身のエピソードです。
前編はこちらから。
集められた「Japanese」
震災翌週から語学学校に通い始めて、1、2週間たった頃でしょうか。いきなり日本人だけが集められ、「市内の州議事堂に行くように」と指示され、日時を伝えられました。
―「earthquake(地震)のだよ」と、それだけ言われて。
当日、何かと思いながら指示された場所に行ってみると、オーストラリアが国として「がんばれ日本」という趣旨の会を開いてくれたのです。オーストラリアの各所から日本人が集められていたようでした。その会では、オーストラリアの政府関係者や、日本からの留学中の高校生がみんなの前でスピーチをしました。

Yuki 「オーストラリア」より
個人的に何かをしたり、もらったりしたわけではありませんでしたが、このような会を開いてくれたことが自体が非常に嬉しかったことを覚えています。特に日本を離れて数週間しか経っていなかった私は、「オーストラリアで大勢の日本人に会えた」というだけでも強い安心感を抱きました。
その会では、オーストラリアの人が見守ってくれているような、温かい気持ちが伝わってきました。同時に私がここに来たことを肯定されたような気持ちになり、「オーストラリアに来てよかったんだ」、「ここで頑張っていてもいいんだ」と思うことができました。
私は「日本人」だった
オーストラリアには、アジア人、アフリカ人、欧米人など様々な国の人たちがいます。アジア人でも中国、韓国、タイ、そして日本など、この他の国の人もいますが、どの国の人も、同じような系統の顔をしているので見分けがつかないこともよくあります。私も「チャイニーズ?」と聞かれることがよくありました。
「I’m Japanese.」
このように何度も「私は日本人」という返事をするたびに、自然と「日本人である」という自覚が強くなったと思います。

Daisuke Ogura 「メルボルンには本当に世界一カフェがあるのか?メルボルンに確認しに行ったついでに、ケアンズも周る旅」より
私は、どちらかというと日本を出るまで、「日本人だから」という意識をしていないタイプの人間でした。オリンピックがあればもちろん日本を応援しますし、都道府県対抗なら自分の出身県を応援します。でもそれはおそらく多くの人にとって普通のことで、そのことに対して深く考えることはなく、無意識でした。
生まれてから今までずっと日本にいたのにもかかわらず、「日本人である」と初めて強く意識した瞬間は、オーストラリアという外の世界での出来事でした。

Masayuki Oka 「オーストラリア父子旅 メルボルン編② シティ散策」より
震災翌日に海を越えたという経験は、間違いなく誰もがするものではないでしょう。たくさんの不安もありましたが、結果的にそれは日本へ対する新しい気持ちに気が付くことができ、震災に悲しむ日本人を迎えてくれたオーストラリアの人々の温かさを教えてくれるものとなりました。オーストラリアという温かい国と、震災という悲しい出来事、どちらも私にとって一生忘れられない記憶となるでしょう。
(ライター:Yoko Fujie)
Photo by:065/365: Show us your smile! by benjaminasmith, on Flickr
メルボルンの旅行記はこちら
*Yuki 「オーストラリア」
*Daisuke Ogura 「メルボルンには本当に世界一カフェがあるのか?メルボルンに確認しに行ったついでに、ケアンズも周る旅」
*Masayuki Oka 「オーストラリア父子旅 メルボルン編② シティ散策」