平日でしたが、多くの人が訪れていました。比率的にはやはり女性の方が多かったかな。 館内で写真を撮るには、入場料とは別に料金を支払う必要があります。
旅行記 『【メキシコシティ】フリーダ・カーロ、愛憎の芸術家のミュージアム。』 よりフリーダ・カーロ美術館(Museo Frida Kahlo)(Federal District, メキシコ)の口コミ情報と旅行記、フリーダ・カーロ美術館(Museo Frida Kahlo)までの行き方や地図をまとめています。フリーダ・カーロ美術館(Museo Frida Kahlo)の他にもFederal District、 メキシコのおすすめスポットを紹介しており、みんなの口コミから自分だけの旅行プランを立てることが可能です。
平日でしたが、多くの人が訪れていました。比率的にはやはり女性の方が多かったかな。 館内で写真を撮るには、入場料とは別に料金を支払う必要があります。
旅行記 『【メキシコシティ】フリーダ・カーロ、愛憎の芸術家のミュージアム。』 よりフリーダが生まれ、そして後にディエゴと暮らしたメキシコシティ南部コヨアカン地区にある、通称「青い家」。現在はフリーダ・カーロ博物館となっています。 最初、Av.Insurgentes Surの最寄りのバス停から歩いて向かっていたのですが、かなり遠いので途中でタクシーを使いました。結構遠いので最初からタクシーを拾えばよかった…と反省。
旅行記 『【メキシコシティ】フリーダ・カーロ、愛憎の芸術家のミュージアム。』 より博物館にはフリーダの絵だけではなく、作品や遺品、実際に使っていた物など、様々なものが展示されています。 これは彼女が作成した物かは失念しましたが、彼女をとてもよく表している物だと思います。
旅行記 『【メキシコシティ】フリーダ・カーロ、愛憎の芸術家のミュージアム。』 より血の流れた心臓には、無数の針が刺さっています。 幼少期の病気、想像を絶する事故、その後遺症に苦しまされた彼女の人生は、常に「死」を感じずにはいられなかったはずです。 それに加えて、愛する夫のディエゴは女遊びが終わることも無く、フリーダの妹とも関係を持ち、フリーダ自身も男女関係なく多くの人と関係を持つようになります。 彼女自身が苦しみを受け、そこから逃れる為に自ら苦しみを増やして行ったようにも見えました。
旅行記 『【メキシコシティ】フリーダ・カーロ、愛憎の芸術家のミュージアム。』 より彼女の遺品は、彼女の死後ディエゴがクローゼットに封印しました。ディエゴの死後、ディエゴの遺言によって、その遺品は15年は封印するようパトロンに言付けられました。 そのパトロンも、自分の死後まではその封印を解かないと決め、遺品の封印が解かれたのはフリーダの死から58年後の2002年でした。 フリーダは伝統的な衣装を普段着として着用しており、キッチンなどを見ても分かるように、フリーダは伝統的なものや、先住民の文化や民芸をとても大切にしていました。
旅行記 『【メキシコシティ】フリーダ・カーロ、愛憎の芸術家のミュージアム。』 よりメキシコ人はとても家族や親族の絆が強いですが、フリーダの家族もきっとそうだったんだと思う。
旅行記 『【メキシコシティ】フリーダ・カーロ、愛憎の芸術家のミュージアム。』 よりフリーダの描いた、ディエゴと手を繋いでいる絵。 185cm100kgを超えたディエゴと、子どもの頃の病気や事故の後遺症でやせ細った小柄なフリーダ。 二人は1929年8月21日に、フリーダは22歳、ディエゴは43歳の時に周りの反対を押し切り結婚しました。 21歳もの年の差に、ヒキガエルとも言われたディエゴとモデルもしたことのあったフリーダ、「美女と野獣」とはまさにこのこと。 フリーダの母親はふたりのことを「象と鳩の結婚」だと表現したそうです。 この当時ディエゴはもうメキシコを代表する画家で超女ったらし、フリーダはそこまで有名では無かったのですが、フリーダの才能をディエゴは見抜いていたそうです。 女ったらしと分かっていて結婚したフリーダはどんな覚悟だったんだろうか…
旅行記 『【メキシコシティ】フリーダ・カーロ、愛憎の芸術家のミュージアム。』 より